江戸時代の「街道」には一里塚が定められていて、その場所には一里塚の「松」が
植えてありました。それが三入下町屋村に定められていて、出雲街道の一里塚として
馬通川沿いの「壱ノ坪」にあったと文章に記載されています。文政二年(1819)の
「書出帳」(公文書)では、「台ノ坪」という表記になっていますが。
 つい先年前までは、それらしいもの(一里塚の松)が、目に見えていたのです。
現在の安佐北3区市道225号線(旧道)にあったのでした。現在は、一里塚の跡地は
西川さんの宅地内の一角で、山本さんの所有でありますが、山本さんの承諾を得て、
「一里塚の跡地」の石柱を建立することになったものです。その一里塚は、広島から
松江に通じる出雲街道の一里塚の一つでありました。
 ところで「壱ノ坪」という地名がまた特別なのです。奈良時代よりもふるい「大化の改新」
で定められた「条里の制」のよる水田に名づけられたもので、一ノ坪から三十六坪までの
広さを「里」としたのです。つまり「大化の改新」により「条里の制」の名残と思われる
「壱ノ坪」の地名が、当地にあり、偶然にも「壱ノ坪」に「一里塚」が定められたものです。